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◆2017年世界精神医学会議(WPA) ベルリン  丹野義彦


  2017年にドイツのベルリンで開かれた第17回世界精神医学会議(WPA)に出席した。大会の様子を報告したい。

1.どんな学会が、いつ、どこで開かれるか。
学会:第17回世界精神医学会議(World Psychiatric Association XVII World Congress of Psychiatry, Berlin 2017)
会期:2017年10月8日~12日
会場:メッセ・ベルリン

2.どんな領域の研究者が参加するか、どんな雰囲気の学会か。
 この大会は、精神医学者が中心であるが、メンタルヘルスにかかわる多職種が参加する学会であり、心理職や看護師、ソーシャルワーカーの参加も多く、そのための学術プログラムも数多く開かれている。
 大会長は、WPA会長(2014~2017年)のディネシュ・ブグラDinesh Bhugra(イギリスのロンドン大学精神医学研究所の名誉教授)である。
 大会のテーマは、「21世紀の精神医学:文脈、議論、関与」“Psychiatry of the 21st Century: Context, Controversies and Commitment”という(よくわからない)ものであった。
 個人的には、2015年は台北(台湾)で開かれたWPA大会以来、2回目の参加である。
 面白かったのは、会場内に食べ物の屋台(ケータリング)がたくさんあったことである。食堂のスペースはなく、そのかわりに、広いロビーに、業者が出している屋台があり、そこだ食べ物を買った参加者は、ロビー内の椅子に座って食べる。焼きそばとかB級グルメの屋台である。お菓子や果物とかジュースの屋台もあちこちにあって、甘い物も飲み食いできるようになっている。このような形式は国際学会では初めてだった。日本でも取り入れると面白いかもしれない。

3.学会の規模はどれくらいか。 何人くらい参加するか。
 130カ国以上の国から、10,000人の参加者があった。
 WPA(World Psychiatric Association世界精神医学会)は、各国の精神医学会の連合であり、現在、118カ国の138の団体が参加しており、22.5万人の精神科医が所属している。
 地元のドイツ精神医学会(Deutsche Gesellschaft für Psychiatrie und Psychotherapie, Psychosomatik und Nervenheilkunde: DGPPN)が協力している。直訳すると「ドイツ精神医学・心理療法・心身医学・神経学会」となる。1842年に創設され、現在8900人の会員がいる。会長は、ベルリン医学大学Chariteの精神科教授のアンドレアス・ハインツAndreas Heinzがつとめている。

4.どんな学術プログラムがあるか。
(1)プログラムの概要

 約900本の学術プログラムがあり、プログラムは44のテーマに分類されている。ポスター発表は950本であった。

(2)開会式
 開会式は11月8日17:30から、大ホールで開かれた。
①WPA会長のディネシュ・ブグラDinesh Bhugra(イギリスのロンドン大学精神医学研究所の名誉教授)の挨拶があった。大会バッグの中に、青い蝶々のバッジがあり、これは精神障害をもつ人々への社会的正義のキャンペーンのものとのことで、これを着用してくださいと言っていた。
ちょうちょのバッジをつけて下さいと言っていた。
USBの中にファイルがあるので、使ってほしいと。
②ドイツ精神医学会の会長のアンドレアス・ハインツ(Andreas Heinz; ベルリン医学大学Chariteの精神科教授)の挨拶。
③ジャン・ドレイ賞の授賞式。
 ドレイは、フランスの精神医学者で、パリ大学精神科教授で、WPAの初代会長をつとめた。この賞は、3年に一度選考される。前回の2014年の受賞者は東北大学名誉教授の佐藤光源氏であり、日本精神神経学会で「精神分裂病」という病名を「統合失調症」へと変更してスティグマを低減したことへの功績であった。今回の2017年の受賞者は、スイスのチューリッヒ大学名誉教授のジュレス・アンクストJules Angstである。彼は、チューリッヒのブルクヘルツリ病院でブロイラーの指導を受けたという歴史的な経歴がある。双極性障害についての研究で有名で、受賞講演では、双極性障害は過少診断under-diagnosedされていると述べていた。
④サイモン・ウェスリーの講演
 ロンドン大学精神医学研究所IoPの教授サイモン・ウェスリーSimon Wesselyの講演。この人は会長ディネシュ・ブグラとは精神医学研究所の同僚であったようだ。医学生がどのように精神医学を選択するか、医学の中での精神医学の地位について、面白おかしく話していた。英語圏の人は大笑いしていたが、早口の英語でよく聞き取れず、笑っていない人も多かった。
⑤バイエルン医師オーケストラの演奏
 ミュンヘンのあるバイエルン州からきたBavarian Doctors Orchestra(BAO)がモーツァルトの交響曲プラハを演奏をした。30人くらいのオーケストラで全員が医師という。
⑥レセプション
 大勢の人がひしめいて、ワインと食事に殺到した。ワインは何とか飲めたが、食事は行列が長くてあきらめた。

(3)難民の精神医学とサポート
 今回の大会で目立ったのは「難民」についてのテーマである。シリア難民がヨーロッパ中に押し寄せて、ドイツは多くを受け入れる決断をしたが、ドイツ国内の難民受け入れ施設の周りに高い壁が作られていることに批判も起こった。一方では、難民を受け入れる経済的余裕のない国も多い。また、2016~17年にヨーロッパの各地で発生したテロ事件には、ISの思想に共鳴した者や、昔ヨーロッパに来た移民の2世がかかわっていたことがわかり、大きなショックを与えた。こうした社会問題に対して精神医学でも大きな関心がもたれている。
 例えば、ストレスについてのシンポジウムでは、チュニジアの精神科医はイスラム女性のフランスへの移民のメンタルヘルスについての調査結果を発表していた。事例がリアルだった。こういう研究はWPAらしいテーマと言える。

(4)ナチス時代の精神医学

 会場には、ナチス時代の精神医学についての展示があった。広いスペースを使って、「登録され、迫害され、絶滅され:国家社会主義時代の病者と障害者」„Registered, persecuted, annihilated: Psychiatry in the time of National Socialism”という本格的な展示があった。これはショッキングなものである。今でもナチスへの批判を続けるドイツ人は、このことを決して隠そうとせずに、反省を忘れていない。
 ナチス時代は、精神医学の歴史上の暗黒時代であり、その焦点となるのがT4作戦(Aktion T4)である。これは精神障害を持つ人の安楽死政策である。1940年から1941年におこなわれ、その犠牲者は7~20万人と言われる。
なぜT4と呼ばれるかというと、安楽死を管理した役所が、ベルリンの「ティーアガルテン通り4番地」Tiergartenstraße 4にあったためである。この大会では、このティーアガルテン通り4番地を訪ねる歴史ツアーが企画されていた(後述)。
 この政策は、ナチスの優生学思想にもとづくもので、当時の医学者や精神医学者が協力した。会場の展示では、この政策に協力したWilhelm Werner, Ernst Rudin, Erich Braemer, Hermann Grimme, Gotfried Ewald, Hans Heinze, Carl Schneider といった者たちのパネルが展示されていた。
 北杜夫が芥川賞を受賞した小説『夜と霧の隅で』(1960年)では、このT4作戦に抵抗するドイツの精神科医の異常な行動が描かれている。
 T4作戦がさらに罪深いのは、この作戦にかかわった者たちが、のちにユダヤ人への絶滅収容所を作り、ユダヤ人虐殺を始めたということである。T4作戦で開発されたガス殺という方法が、のちにユダヤ人虐殺の手段として用いられた。アウシュビッツやトレブリンカといった絶滅収容所では、ガス殺によって何百万人というユダヤ人が虐殺された。
さらに、会場の„Artists as Victims and Survivors of Nazi Psychiatry”という展示では、ナチスの犠牲となった芸術家の絵画が展示されていた。また、„Documentary and exhibition about Dorothea Buck”という展示では、ナチスの犠牲になりかけたがかろうじて生き延び、100歳を迎えた今日まで創作活動を続けているドロテア・ブック(1917年~)の作品を展示していた。

(5)ナチスのT4作戦の本部跡を訪ねるツアー
 この大会では、このティーアガルテン通り4番地を訪ねるガイド付きツアー„Visit the Topography of Terror and T4 Memorial in Berlin”も企画されていた。参加費は35ユーロ(約5000円)で、研究者が英語でガイドしてくれる。決して興味本位ではない。精神医学の負の歴史を直視するためのツアーである。
 ツアーに申し込んでみたが満員だったので参加できなかった。調べると、泊まったホテルから遠くないので、この場所へ行ってみることにしたが、これについては後述する。

(6)ドイツ精神医学を求めて
 ドイツで開かれた精神医学会なので、クレペリンとかヤスパースなどドイツ精神医学や精神病理学の話を期待していたが、精神病理学のセッションは少なかった。
 ドイツ精神医学は、ハイデルベルク大学やミュンヘン大学やライプツィヒ大学などが主流であり、ベルリン大学という場所はそれほど大きな貢献をしたわけではない。そうした事情もあるのだろうか。
 また、WPAはメンタルヘルスの実務家が多く、精神病理学のような話は全面には出てこないからかもしれない。DSM-5のようなアメリカ精神医学が主流となり、ドイツ精神医学は今では影響力を失ってしまったのだろうか。
 ベルリンという地は、精神医学の発展の場というよりも、前述のように、精神医学の暗黒の場という側面が強いのではなかろうか。それを決定的にしているのが、次に述べるT4作戦(ナチスによる精神障害者の安楽死政策)である。この政策の本部があったのがベルリンである。こうした場所ベルリンで開かれたWPAだったので、精神医学を無条件に肯定するような雰囲気は慎まれたのかもしれない。


6.日本から誰が参加していたか
 日本からも多くの参加者があり、多くの発表があった。
 駒場からも石垣琢麿教授と細野正人助教が参加した。


7.発表申し込みの〆切はいつか、大会参加費はいくらか

 参加費は、会員が600ユーロ、非会員が730ユーロ、学生が200ユーロである。


8.これまでの開催地と次回の開催地はどこか。
2011年はバトンルージュ(アメリカ)で開かれた。
2012年はジャカルタ(インドネシア)で開かれた。
2013年はブカレスト(ルーマニア)で開かれた。
2014年はマドリード(スペイン)で開かれた。
2015年は台北(台湾)で開かれた。
2016年はケープタウン(南アフリカ)で開かれた。
2017年はベルリン(ドイツ)で開かれた
2018年は9月にメキシコシティ(メキシコ)で開かれる予定である。


9.学会や大学や旅行で気がついたこと、その他

 大会の初日、会場の入り口は警備が厳重だった。入り口の前では、精神医療に反対する団体が囲んでおり、「精神科医は国が守る犯罪者」というプラカードをかかげていた。事前に送られたバーコードを提示しないと会場に入れない。事前に、参加者には、「会場に入るには確認が必要なので、バーコードを印刷してきてほしい」というメールがきていた。この大会は当事者の参加を排除しているわけではなく、事前に登録すれば誰でも参加することができる。
 大会初日、鉄道のメッセ南駅を出て、会場にいく途中に、「精神医学:フェイクな科学、ほんとの毒」Psychiatry: Fake Science. Real Harm.という幕がかかっていた。思わず笑ってしまった。2日目以降は隠れていた。
 ドイツには精神医療に反対する団体が強いのかもしれない。しかも、前述のT4作戦の本部があったベルリンでは強いのかもしれない。強制収容所跡へ行ってみるとわかるが、ドイツは戦前のナチスを否定する教育が徹底していて、子どもの頃から学校でユダヤ人虐殺の事実を教育される。ドイツは国をあげて戦争責任を反省している。これについては、私のミュンヘンについてのホームページを参照いただきたい。

ナチスのT4作戦の本部跡を訪ねる
 この大会では、ナチスのT4作戦の本部跡を訪ねるガイド付きツアー„Visit the Topography of Terror and T4 Memorial in Berlin”が企画されていた。ツアーが満員だったので参加できなかったが、泊まったホテルから遠くないので、この場所へ訪ねることができた。
 地下鉄Uバーンのポツダム広場駅でおり、ソニーセンターの中を突っ切ると、ティーアガルテンの南側の道に出る。ティーアガルテンは、ベルリンの中央にある巨大な公園で、昔は王の狩猟場だったもので、都会の真ん中なのにうっそうとした森が広がっている。南側には、「文化フォーラム」という地区があり、ベルリン・フィルハーモニー、絵画館、楽器博物館といった文化施設が並んでいる。ベルリン・フィルのビルは黄色の双児のビルでよく目立つ。(その西側にはヒロシマ通りがあり、そこに日本大使館がある。)
 このような文化地区に、昔、ナチスのT4作戦の本部があったとは信じられないことである。
 ベルリン・フィルの建物の前は、鉄製の巨大なオブジェがあり、これはT4作戦の犠牲者の追悼のモニュメントとして作られた。
 バス停にはT4作戦の説明板(ドイツ語と英語)がある。英語の説明を訳してみると次のようになる。

■T4作戦とホロコースト
 第二次世界大戦中まで、このバス停の近く、ティーアガルテン4番地には、ひとつ建物が建っていた。「T4」という名前はこの住所からつけられたものである。このT4作戦で、1940~1941年に、精神障害を持つ7万人以上の人がガスで殺された。全体では、精神障害や身体障害を持つ人が20万人以上殺された。この建物には「看護のための慈善団体の施設」という名前がつけられていたが、それは世間を欺くためのものであり、実際には、「価値のない人々をこの世から抹殺する」ための団体であった。ヨーロッパでユダヤ人虐殺が始まったのは1941年晩夏のことであったが、このT4作戦の団体にかかわった者たちが、ポーランドの絶滅収容所の建設にかかわったのである。また、絶滅収容所のドイツ人の看守たちは、以前にこのT4作戦にも携わっていた。

■T4作戦にかかわった者たちの一例:クリスチャン・ヴィルト(1885~1944年)
クリスチャン・ヴィルトは、1940年1月に、ブランデンブルグの町でおこなわれた15名の患者のガス殺の試行に加わった。のちに彼は、ハルトハイム、グラフェネック、ハダマーの障害者ホームにおけるT4作戦に携わった。その後、1941年秋に、ヴィルトは、ポーランド南部のベウジェツ(Belzec)の絶滅収容所の建設を指揮した。故国を追放されたユダヤ人は、この収容所でディーゼルエンジンの排気ガスで殺された。半年後、ヴィルトは、3大絶滅収容所(ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカ)の主任監督官に任命された。これらの収容所は1943年11月に閉鎖されたが、ヴィルトたちT4作戦のメンバーは、トリエステに移動し、そこでサン・サバ強制収容所を作った。ここでも多くのユダヤ人を殺した。1944年春に、ヴィルトはパルチザンによって殺された。

"Action T4" and the Holocaust
A villa on Tiergarten Strasse 4 stood near thjs bus stop till the end of World War II. The term "Action T4" was derived from the address. It stood for the gassing of more than 70.000 mentally handicapped during 1940/41. In total more than 200.000 persons with mental and physical handicaps were murdered. The term "Gemeinnutzige Stiftung fur Anstaltspflege" (Charitable Foundation for Care Institutions) was the deceptive term for an organization that aimed to "annihilate worthless life". The murder of Europe's Jews began in the late summer of 1941.Construction specialists from Action T4 played a significant role in the building of death camps in Poland. A number of the camps' German guards had previously been working for Action T4.

One Example of Many: Christian Wirth (1885-1944)
Christian Wirth participated in the tria1 gassing of around 15 patients in the town of Brandenburg in January 1940. He was later part of Aclion T4 at homes for the disabled in Hartheim, Grafeneck and Hadamar. Wirth directed the constructjon of Belzec death camp in southern Poland in the autumn of 1941. Jews who had been deported there were murdered with exhaust fumes from diesel engines. Six months later, Wirth was promoted to chief inspector for the three death camps in Be1zec, Sobibor and Treblinka. These camps were closed in November 1943. Wirth and other members of Action T4 were posted to Trieste where he opened San Sabba Camp. Further Jews were murdered there. Wirth was killed by partisans in the spring of 1944.

 ポツダム広場の駅前には、精神医療について展示しているテントがあった。中に入ってみたら、精神医療を否定する団体であった。精神医療の負の側面を強調して、残酷な写真を多く展示していた。おそらく、WPAのベルリン大会に合わせて展示をおこなっていたのだと思われた。確かにこのような負の歴史があったことは確かであるが、しかし、精神医療の関係者は当事者やその関係者の苦悩を減らすために真剣に仕事をしているわけであり、そうした正の側面もきちんと展示してほしいと思った。

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