東京大学駒場キャンパスは,前期課程(1・2年生)・後期課程(3・4年生)・大学院という3層からなっており,あわせて9000名以上の学生が学んでいる。そのメンタルヘルスは大きな問題である。とくに前期課程の学生は,何か悩みを持っても,ヨコのつながりが少なく,ソーシャルサポートを得にくい状況にある。例えば,われわれが1996年におこなった駒場の学生の意識調査によると,駒場キャンパスの学生管理は非常に弱く,そのポジティヴな側面(のびのび試行錯誤ができる・教師に干渉されない)に満足している学生は多い。
しかし,その反面,ネガティブな側面も少なくない。まず,学生同士のネットワークが,情報中心(おそらく試験情報が主であろう)のドライなものとなり,助け合い意識が乏しい。そして,驚くべきことに,88%の学生が「クラス担任と一度も話したことがない」と答えているのである。つまり,クラス担任制度は形骸化しており,教官と学生の交流が乏しく,ほとんど放任に近い。「困ったときに教官や職員に相談できる場がほしい」と答える学生は67%に達していた。
別の調査結果では,多くの学生がアパシー・抑うつ・対人不安などの問題を抱えている。こうした駒場キャンパスのネガティヴな側面が,カルト宗教につけこまれるスキを作るのであろう。駒場キャンパスが新興宗教の草刈り場になっていることは,以前から有名である。
このように駒場キャンパスのメンタルヘルスは,深刻な問題になりつつある。東京大学駒場心理臨床相談室の設立はこのような現状を少しでも改善することをひとつの目的としている。
駒場キャンパスの学生相談所は,学生9000名に対して,相談員が1名という体制であり,きわめて不足である。今後,われわれは駒場キャンパスの学生相談所の人員的充実を強く東京大学に求めていくつもりである。それと同時に,学生相談所の業務をバックアップするため,新たに東京大学駒場心理臨床相談室を設立することにしたのである。
図に示すように,駒場キャンパスには,いくつかの学生相談機関があり,ネットワークを作っている。その中心をなすものは,保健センターと学生相談所である。これらは駒場キャンパスの教官組織である総合文化研究科とは独立の組織となっている。したがって,東京大学駒場心理臨床相談室は,保健センターや学生相談所と,総合文化研究科をつなぐ機能を果たすことが期待される。
われわれは総合科目『現代教育論』の時間を利用して,駒場の学生のメンタルヘルスについて,多くの調査をおこなってきた。とくに,96年度からは,意識的に縦断調査をおこない,情報を組織的に集めてきた。ここで扱われたテーマは,大学生のストレス,抑うつ,対人不安,学生相談室のイメージや必要性,大学間比較など,きわめて多岐にわたっている。一部のテーマについては,質問紙法だけでなく,面接法を取り入れて,生きた資料を収集するように心がけている。
また,調査結果については,学生に集団でフィードバックしたり,個人的にフィードバックしているが,これが学生にとっては大いに役立つようである。さらに,『現代教育論』のオフィスアワーを利用して,学生のメンタルヘルスや悩みについて,個人的相談や面接も受け付けている。
このような実績を受け継いで,東京大学駒場心理臨床相談室は,学生の調査や面接相談を積極的におこなうことを目的としている。
駒場キャンパスでは,前期課程の学生向けに,いろいろな臨床心理学教育がおこなわれている。総合科目の『現代教育論』,主題科目の全学ゼミナール『教育病理・精神病理』などである。また,教育学部からの持ち出し講義として,いくつかの臨床心理学の講義が開講されている。
最近の学生は,一般に,心理学への関心を強めつつある。前期課程でも,心理学関係の授業は超満員である。臨床心理学のゼミを開くと,20名の定員に対し,希望者は毎回100名を越す。また,93年から始まった新科目の『基礎演習』でも,心理的なテーマを選んで発表する学生は,毎年,クラスの半数近くにのぼる。後期課程や大学院でも,臨床心理学を専攻したいという学生は,年ごとに増えている。
こうした学生の心理学への興味をしっかりと受け止めて,カルト宗教やオカルトなど神秘主義の方へ向かわせることなく,科学的な心理学の方へ向くように導いていかねばならない。良質な臨床心理学の情報を提供することは,そうした点からも意義があろう。東京大学駒場心理臨床相談室は,このような臨床心理学教育の補助という業務もおこなう予定である。
精神医学の卒後教育などに比べ,心理臨床家の教育体制はきわめて遅れている。こうした遅れを補うためか,平成17年から,臨床心理士資格は,指定校制度へと完全に移行する。総合文化研究科の大学院生の中には,臨床心理士の資格をめざす者が何人かいる。大学院学生の臨床指導のためにも,東京大学駒場心理臨床相談室を設立することにした。心理臨床相談室の設立により,心理臨床家の養成が組織的に行えるようになり,スーパーバイズ体制も整備される。
駒場キャンパスの心理学研究室には,病理学の伝統がある。梅津八三,中村弘道,鹿取廣人,鳥居修晃,河内十郎といった歴代の先生方が,臨床的・障害学的な方法を取り入れた心理学を構築されてきた。こうした諸先生のもとに,優れた大学院学生が集まって,駒場の臨床心理学の伝統を作ってきた。
こうした伝統にもとづいて,『認知臨床心理学入門』(東京大学出版会,1996年)や『メンタルヘルスの心理学』(東京大学出版会,準備中)などが出版されたことは,これらの出版物のあとがきに詳しい。東京大学駒場心理臨床相談室の設立は,このような臨床心理学の伝統の上に築かれるものである。
駒場キャンパスにおける臨床心理学研究者の養成は,学部レベルとしては教養学科第1人間行動学分科(現生命・認知科学科)において,大学院レベルとしては総合文化研究科の認知行動科学においておこなわれてきた。
教養学科第1人間行動学分科でおこなわれた卒業論文のテーマは以下のようなものがある。「自己意識の病理学と妄想的思考」,「妄想的思考の心理学的研究」,「外国人留学生の異文化適応」,「地方出身者の東京のイメージの形成と適応」,「大学生のソーシャルサポート・ネットワークの変化について」,「自己制御行動を規定する心理学的要因」,「ストレスに対する認知的評価とコーピング」,「感情が認知・行動に及ぼす影響」,「感情と認知に関する心理学研究」,「小集団における意見の変容と意思決定」。また,所属は人間行動学分科ではないが,実質上の研究を人間行動学分科でおこなった研究のテーマとして,「ネガティブな認知が強迫・不安・抑うつに及ぼす影響の多次元的検討」,「文化と自己-アメリカ人における自己意識と子の養育態度の特徴」などがある。
また,総合文化研究科の認知行動科学における修士論文のテーマとしては,次のものがある。「対人不安-その状況因と認知過程」,「感情が認知に及ぼす影響-日本の大学生における達成の原因帰属に関して」,「妄想的観念の測定と素因ストレスモデルの検討」,「親と子の家族機能の認知と精神病理」。また,所属は認知行動科学ではないが,実質上の研究を認知行動学でおこなった修士論文のテーマとして,「不安認知の二面性-心配の制御と制御困難性」,「仕事上・生活上ストレスが鬱症状に与える影響の長期的研究」がある。
さらに,総合文化研究科の認知行動科学における博士論文のテーマとしては,「精神分裂病者と健常者における幻聴体験の構造化」がある。
東京大学大学院 広域科学専攻 生命環境科学系 認知行動論大講座(以下,本大講座と略す)は,たしかに「広域科学専攻」という理科系の名称の専攻に属しているが,実質上は心理学の教官の集団であり,心理学の研究者や東京大学内部から,「心理学」の専攻に準じた扱いを受けてきた。
理科系の名前を持つために,大学院生が臨床心理士の資格取得時に不利にならないように,このことについて説明しておきたい。