人はなぜ落ち込んだり不安になったり,歪んだ考えを持ったりするようになるのでしょうか。科学の最後のフロンティア領域として,人の「感情」というものがあります。ここでは,人の感情や精神病理の科学的研究について,丹野研究室の仕事を中心に紹介します。
感情研究のパラダイムのひとつに,ベックの抑うつ理論があります。この理論は,図1のように,ABC図式を枠組みにしています。
Aとは,悩みのきっかけとなる出来事やストレスをさし,Bは,出来事の受け取り方や認知をさします。Cは,認知の結果としておこってくる感情や悩みをさします。ベックによると,抑うつ感情Cを生み出すものは,出来事Aではなくて,その出来事をどう解釈するかという認知Bです。これまでは,うつ病の認知障害は,感情障害の結果であると考えられてきました。ベックは,これを逆転させ,認知障害が感情障害を起こすとしました。こうしたコペルニクス的な発想転換により,認知を変えれば抑うつが軽減されるという「認知療法」が出てきました。軽度うつ病の治療において,認知療法には薬物療法と同等の効果があることが証明されています。その結果,認知療法は世界に広がりました。 |
図2 認知療法のメッカ -ロンドンのモーズレイ病院 |
その後,認知理論は,例えば不安障害や精神分裂病など,抑うつ以外の症状にも適用され,いまや感情研究の一般理論として成長しています。ここでは「妄想」についての筆者の研究室の仕事を紹介しましょう。妄想は精神分裂病に非常に多くみられる症状です。
妄想は複雑な現象なので,いったん要素に分解する必要があります。筆者は,図3に示すようなパーツに分解しました。そして,各パーツごとに,測定ツールとなる質問紙法や構造化面接法を作りました。次に,妄想の発生のメカニズムを探るために,図3に示すような統合モデルをつくりました。図3のABC図式や認知のレベルは,上で述べた抑うつ理論(図1)と共通しています。この図からいうと,妄想は,ストレスと素因(スキーマ)が相乗的に働いて発生します。こうした「素因ストレスモデル」が成り立つかどうか,筆者の研究室では,準実験法という方法で調べてみました。対象は駒場キャンパスの大学生117名です。その結果,図4に示すように,もともと「怒り」の感情を強く持っている人は,ストレスを多く受けると,被害的な妄想観念を持ちやすいことがわかりました。一方,「怒り」の感情をあまり持たない人は,ストレスを多く受けると,被害的な観念を持ちにくくなります。怒りなどの感情が強いことは,被害妄想の素因となるわけです。 |
図4 被害妄想の素因ストレスモデルを検証する |
このように発生が予測できれば,こんどは発生を予防することもできるはずです。現在,筆者は,妄想の発生を予防するという課題に取り組んでいます。ここで紹介したように,筆者の研究室では,大学生など健常者を対象とした臨床研究(アナログ研究)を大きく取り入れています。質問紙法や構造化面接法などの定量的なツールを用いて,大量のデータをとり,統計的方法を駆使して分析します。こうした研究は,東京大学の駒場キャンパスという研究フィールドの特性を生かしたものです。
ここでのべたような研究領域は「異常心理学」と呼ばれます。異常心理学は,図5に示すように,アカデミックな心理学と臨床心理学と精神医学をつなぐ要の位置にあります。異常心理学は,こころの健康を追求する領域でもあります。事実,筆者の研究室の仕事は,8000名に達する駒場の学生のメンタルヘルスにも貢献しています。