『イギリスこころの臨床ツアー:大学と精神医学・心理学臨床施設を歩く』丹野義彦
星和書店、2012年刊
本書は、イギリスの10都市の大学めぐり・病院めぐりの旅行ガイドブックです。
オクスフォードやケンブリッジ、マンチェスターなどの10大都市をとりあげて、大学キャンパスを散歩し、臨床心理学や精神医学の臨床施設の歩き方を解説しています。実際に足で稼いだ情報満載。従来のガイドブックとは一味違うイギリスの顔が見えてくるでしょう。イギリスの医学や心理学の実態、歴史などの入門書としても楽しめる一冊です。
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本書はイギリスの10の都市をめぐり、医学・心理学散歩を試みたものです。前著『ロンドンこころの臨床ツアー』ではロンドンに絞って紹介しました。本書はもっと広げてイギリス全体について紹介します。
イギリスという国は、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドという4つの地方からなる連合王国です(地図1)。
本書では、まず、地図2に示すように、イングランド地方の7都市を回ります。
最初は古典大学のオクスフォード大学とケンブリッジ大学を回ります。次に、イギリスの玄関口ロンドンに戻り、前著『ロンドンこころの臨床ツアー』に続いてとっておきの大学を紹介します。地図2に示すように、オクスフォードとケンブリッジとロンドンは、1辺がほぼ50マイル(約80キロメートル)の正三角形をなしています。
次に、ロンドンの南のブライトンとカンタベリーを回ります。地図2に示すように、これらの都市とロンドンも、1辺がほぼ50マイルの正三角形をなしています。ロンドンをはさんで、オクスフォードとケンブリッジ、ブライトンとカンタベリーは、ちょうど対称をなしています。ちょうどオリオン座のような形をしているので、頭に入りやすいでしょう。
それからイングランド中部のノッティンガムとマンチェスターを回ります。
次に、他の3つの地方を回ります。地図1に示すように、ウェールズ地方の首都カーディフと、スコットランドの大都市グラスゴー、最後に海を渡って、北アイルランド地方最大の都市ベルファストを回ります。
イギリスは鉄道が発達しているので、これらの都市を訪ねるのは楽です。オクスフォード、ケンブリッジ、ブライトン、カンタベリーは、いずれもロンドンから鉄道で1時間ほどで着きます。マンチェスターやカーディフも、ロンドンから鉄道で2~3時間なので、日帰りが可能です。ただし、スコットランド地方のグラスゴーや北アイルランドのベルファストへ行くには飛行機を使う必要があります。
市内交通についていうと、グラスゴーは地下鉄があり、マンチェスターは路面電車があるので、それを利用します。それ以外の都市は、所々バスかタクシーを利用しますが、ほとんどは徒歩でも十分です。
イギリスの大学は、良い意味で観光地化されているので、キャンパスめぐりはとても楽しい娯楽です。
ほとんどの大学は訪問者を閉め出さず、誰でも自由に出入りできます。建物や庭園を美しく整備して、訪問者を歓迎します。キャンパス内を歩いているととても楽しいのです。建物も美しいし、緑も豊かで静かだし、学生は礼儀正しく、キャンパス内はおだやかで治安もよく、ゆったりとした気分になるには大学歩きは最適です。実際にキャンパスをたくさんの観光客が歩いています。
また、イギリスの大学のキャンパスは、歴史的な名所そのものです。例えば、オクスフォード大学は、ピューリタン(清教徒)革命の時代には、ロンドンを追われた国王が国会議事堂として使いました。イギリスの大学は、16世紀の宗教革命や19世紀の産業革命の舞台となりました。そうした歴史的な名所がキャンパス内にたくさんあります。
さらに、ほとんどの大学は、学内の博物館や美術館を整備して一般公開しています。その規模はきわめて大きく、大学の博物館が国立博物館となっている所もたくさんあります。総合博物館ひとつだけでなく、美術ギャラリー、植物園、自然史博物館、動物学博物館、科学史博物館、民俗学博物館など、テーマ別の博物館まで出している大学もたくさんあり、ほとんどが無料で開放されています。こうした博物館は、日本の『地球の歩き方』などの旅行ガイドブックで観光スポットとして紹介されています。こうした博物館を訪ねたのに大学そのものを観光しないのはもったいないことです。
キャンパスを歩いていると、学生が先導するガイドツアーによく出会います。また、見学者が自分でキャンパスを回るための「セルフガイド・ツアー」を勧めている大学もたくさんあります。そのためのパンフレットも用意されており、キャンパス内の見どころや歴史について、順路を決めて写真入りでわかりやすく解説しています。こうしたパンフレットがあると、初めて訪れたキャンパスでも、短時間で回ることができます。こうしたパンフレットはビジターセンターで配られていますし、ホームページでも公開されています。本書もそれらを利用しました。
日本語の旅行ガイドブックは、大学のキャンパスについてほとんど書いてありません。これに関する書籍もほとんどありません。
しかし、欧米の観光旅行ガイドブックは、大学のキャンパスを観光地として高く評価しています。例えば、ガイドブックの「ミシュラン」をみると、オクスフォードやケンブリッジは3つ星(★★★)で推薦されています。また、ケンブリッジ大学のセント・ジョンズ・カレッジとキングス・カレッジ礼拝堂、グラスゴー大学のマッキントッシュハウスは★★★がついています。3つ星(★★★)というのは最高の評価であり、例えば、ウェストミンスター宮殿やカンタベリー大聖堂といった世界遺産や、ウィンザー城や大英博物館といった観光名所と同格です。
本書に登場する大学の中で、ミシュランが2つ星(★★)で推薦しているのは、オクスフォード大学ではクライスト・チャーチ、モードリアン・カレッジ、ボドレイアン図書館、アシュモレアン博物館です。ケンブリッジ大学では、トリニティ・カレッジ、キングス・カレッジ、フィッツウィリアム博物館、グラスゴー大学ではハンター美術館、カーディフ大学に隣接するウェールズ国立博物館、クイーンズ大学ベルファストに隣接するアルスター博物館なども★★で推薦されています。
観光といえば、日本では、おいしいものを食べたり、買い物したり、スポーツを観戦したりといった感覚的娯楽を思い浮かべます。しかし、歴史的建造物や美しいキャンパスや博物館や美術館といった文化的・精神的な娯楽ももっと見直されてよいでしょう。実際にイギリスやアメリカでは、大学のキャンパスが観光客を集めているのはすばらしいことです。
病院めぐりもまた楽しいものです。本書では、各地の有名な総合病院や大学病院、精神科病院を紹介しています。これらの病院は、市街から離れた場所に位置することもありますが、市街の観光名所の近くにあることも多いのです。ミシュランの星こそついてはいませんが、病院のホームページに院内の散策コースを紹介したり、院内に博物館を設けて無料で開放しているところもあります。
アメリカの病院は入口でのチェックが厳しいのに対し、イギリスの総合病院は、日本と同じく、誰でも自由に中に入れます。入り口のホールはショッピングモールのようになっており、カフェやフード・コート、コンビニエンス・ストアが入っていることもあります。銀行のキャッシュ・コーナーやトイレなども利用できるので、旅行者にとっては便利です。イギリスを訪ねる機会があったら、ついでに病院も見てください。
本書は、イギリスの大学や病院を見学する際に役立つ情報をまとめてあります。その施設の地図、交通手段(最寄りの駅、行き方)、住所、ホームページのアドレス、写真、概要、歴史、見どころ、どんな人がいるか、などの情報をまとめました。
都市や大学の地図は、地理的なイメージを頭に入れていただくための概略図であり、正確な地図ではありません。道路、建物、方角、縮尺などはデフォルメされており、正確なものではありません。また、できるだけ写真を入れるようにしました。
情報はできるだけ最新のものにするように心がけましたが、その後変更があるものもあります。ホームページのアドレスは頻繁に変わります。博物館などの開館時間や最新の情報については、ホームページや旅行ガイドブックなどでご確認ください。
本書はバーチャル・ツアーにも対応するようにしてあります。インターネットで海外旅行の疑似体験が容易になりました。大学のホームページは大量の情報を提供していますし、写真やパノラマビューでキャンパスのバーチャル散歩ができる大学も増えています。グーグルマップのストリート・ビューなどのサイトを利用すれば、その地の映像がすぐに見られます。
本書でもバーチャル・ツアーに対応するためにいろいろ工夫しました。私の研究室のホームページでは、本書や前著で使用したカラー写真を公開しています。
http://park.itc.u-tokyo.ac.jp/tanno/
また、紹介したアドレスのリンクも張ってありますので、それを利用いただければ、アドレスを入力する必要はありません。
インターネットの情報の最大の欠点は断片的であることです。体系的な知識の枠組みがないと、情報の羅列となってしまい、心に残りません。万能のように見えるネットですが、必要な情報が見つからないことが意外に多いものです。ネットの検索には思ったよりも時間がかかります。また、言語の壁は意外に高いものです。こうした点では、書籍という媒体が優れています。ネットと書籍は今後も相補的な関係を続けるでしょう。本書を利用して、ネット情報の断片性や揮発性を少しでも補っていただけたらと思います。
本書はイギリスの10の都市をめぐり、医学・心理学散歩を試みたものです。本書に登場する大学は23校、病院は29施設に及びます。大学と病院という視点に立つと、旅行ガイドブックにはみられない新たなイギリスの顔が見えてきます。観光や研修や学会などでイギリスを訪れる方や、イギリス留学を考えている方は、本書を手に取っていただければ幸いです。また、本書をもとにインターネットでバーチャル・ツアーを楽しんでいただくのも楽しいでしょう。
大学や病院のそばには有名な観光地もたくさんあります。本書に登場する世界遺産は、ブレナム宮殿(p.47)、カンタベリー大聖堂(p.114)、海洋商業都市リバプール(p.187)、ニュー・ラナークの実験村(p.245)、ジャイアンツ・コーズウェイ(p.286)などがあります。
また、イギリスには美しい城が多いのですが、本書では、ウィンザー城(p.83)、ヘイスティングス城(p.145)、カンタベリー城跡(p.124)、ドーバー城(p.131)、ノッティンガム城(p.143)、カーディフ城(p.208)、ダンルース城(p.287)などを紹介しました。本書には登場しませんが、実はオクスフォードやケンブリッジにも城跡があります。よくイギリスは田舎が美しいと言われます。本書でも、コッツウォルズ地方(p.47)やライ(p.105)、湖水地方(p.188)などが登場しました。
さらに、イギリスは産業革命の遺産を保存しています。マンチェスターのキャッスルフィールド地区(p.187)、ニュー・ラナークの実験村(p.245)、ベルファスト・メトロポリタン・カレッジの建物(p.272)などがそうです。
もし、これらの観光名所を訪ねる機会があったら、大学や病院も訪ねてみてください。
本書は、心理学や精神医学の最先端の動きを紹介するようにつとめました。新しい動きは以下の3つにまとめられます。
第1は認知行動療法です。フロイトが亡命して以来、イギリスのロンドンは精神分析の首都となりました。アンナ・フロイトやメラニー・クラインが活躍し、対象関係論が展開し、タビストック・クリニックは、精神分析の牙城となりました。心理学者サザランド(p.96)がうつ病になった1970年代は精神分析療法の全盛期であり、どんな精神疾患でも精神分析療法を受けるといった時代でした。
しかし、しだいに精神分析学は衰退していきました。その理由としては、薬物療法や脳科学の発達で生物学的精神医学が台頭したこと、心理療法においてもエビデンスにもとづく医学(EBM)が浸透するにつれて、精神分析療法の治療効果が認知行動療法などよりも劣ることが明らかになったことがあげられます。
それにかわって主流となったのが認知行動療法です。短時間で大きな効果が得られることが証明されたからです。イギリスではまず行動療法が確立し、ロンドンの精神医学研究所のハンス・アイゼンクがその中心となりました。その後、アメリカのベックの認知療法が入ってきて、オクスフォード大学のワーンフォード病院から広まっていきました(p.40)。この病院でティーズデイル、フェンネル、D・M・クラーク、サルコフスキス、エーラーズ、フェアバーンなどが活躍しました。その後、クラーク、サルコフスキス、エーラーズの3名がロンドン大学の精神医学研究所に移動し、ここが認知行動療法の新たな中心地となりました。クラークが中心となって企画した心理療法アクセス改善政策(IAPT)の司令部となったのは精神医学研究所でした。イギリス政府が2008年から始めたIAPT政策は、認知行動療法のセラピストを3年間で3600人増やしました(p.41)。これによって、今では認知行動療法はイギリス全国に広がりました。心理療法の世界ではいま静かな革命が起こっているのです。マンチェスター大学のタリア、バロウクロウ、ウェルズ、グラスゴー大学のスコットなど、本書はイギリスの認知行動療法家を訪ねる旅でもあります。
また、認知行動療法の「第3の波」と呼ばれる新しい動きも起こっています。ティーズデイルやウィリアムズらが確立したマインドフルネス認知療法(p.43)、マンチェスター大学のウェルズが開発したメタ認知療法(p.174)、マンチェスター大学のタリア(p.183)やオクスフォード大学のフリーマン(p.44)などに代表される精神病への認知行動療法などです。
第2の動きは、エビデンスにもとづく実践の定着です。
エビデンスにもとづく医学(EBM)は現代医療に大きな影響を与えていますが、その始まりはカーディフ大学のアーチボルト・コクランの活動にあります(p.206)。のちにコクラン共同計画へと発展し、オクスフォード大学にコクラン・センター(p.39)が作られ、世界中のRCT(無作為割付対照試験)のデータが集められています。
また、イギリス政府は、他に先がけて「エビデンスにもとづく健康政策」の立場を取り入れるようになりました。ロンドンに国立医療技術評価機構(NICE)を設立し、いろいろな疾患についての治療ガイドラインを出しています。このNICEガイドラインが、前述のIAPT政策を推し進めたのでした。
臨床心理学や心理療法においても、こうした流れが定着しつつあり、RCTをおこない心理療法の効果を数量化するメタ分析の方法が考案され、それにもとづいて心理療法のガイドラインが作られるようになりました。さらに、この動きは社会科学の分野にも普及して、「キャンベル共同計画」といった社会運動に結実したことは、拙著『アメリカこころの臨床ツアー』で紹介したとおりです。
第3は、臨床心理学の興隆です。
歴史的に見ると、1920年頃からイギリスでは病院や学校で働く心理学者が増えました。こうした職業的心理学(プロフェショナル・サイコロジー)の確立に尽力したのは、英国心理学会の初代会長となったケンブリッジ大学のチャールズ・マイヤーズでした(p.66)。それから100年近くが経ち、職業的心理学は心理学の中心的な存在となりました。英国心理学会の会員数をみると、1970年代までは、基礎心理学者(大学の研究者)が多かったのですが、現在では、基礎心理学者3割に対して、職業的心理学者7割という割合となっています。職業的心理学の中でも最も多いのは臨床心理学者です。ストレス社会と言われる現代において、宗教にかわる科学的メンタルヘルスの専門家が求められるようになったわけです。
その中心となるのが英国心理学会です。英国心理学会はアンブレラ団体(傘団体)として、基礎心理学者と職業的心理学者をひとつにまとめ、社会に貢献しています。また、英国心理学会によって、心理学者の資格制度が統一され、国家資格が実現しています。最初に作られた臨床心理士を養成する大学院は、1947年に、ハンス・アイゼンクが、ロンドンのモーズレイ病院に作ったコースでした。今では、イギリスにはこうした養成大学院が約30校あります。これらの大学院の教育の質は、つねに英国心理学会によって厳しく評価・管理されています。臨床心理学者の教育では科学者-実践家モデル(実践技能の訓練と科学者としての訓練を両方大事にするもの)が大切にされます。基礎心理学をきちんと学んだ者が臨床実践をするという仕組みになっています。
イギリスからみると、日本の臨床心理学はかなり遅れています。①日本では、精神分析学の影響が強く、まだ認知行動療法は定着していません。②エビデンスに対する理解も乏しいままです。③科学者-実践家モデルで臨床心理士を養成している大学院は少なく、国家資格も確立していません。ひとりでも多くの臨床心理学の関係者がイギリスに目を向けていただきたいというのが本書の願いです。
本書を構想してからちょうど10年がたちます。私は、2002年にロンドン大学で臨床心理学の研究をおこない、専門家の話を聞くために、イギリスの大学や病院や研究所を訪ねました。留学中に、現地で会った臨床心理学者や精神科医は60名に登ります。こうした経験をまとめたのが拙著『認知行動アプローチと臨床心理学』(金剛出版)でした。
留学中に思ったことは、こうした体験を個人的なエピソードに留めてしまうことなく、何とかイギリスと日本をつなげるシステムを作れないだろうかということでした。そこで、帰国後には、訪問した心理学者の本を翻訳したり、日本の学会に招待して講演やワークショップ(研修会)を開いてもらったり、現地の学会に参加するようにしたり、研究室ぐるみでの交流をはかったりしました。また、私は勤務大学で「現代教育論」という科目を20年以上担当していますが、この講義で欧米と日本の大学教育の比較について話すようにしています。
このようなシステム作りの一環として、イギリスの大学や病院について紹介するガイドブックを作ろうと思いたちました。それが前著『ロンドンこころの臨床ツアー』と本書です。この10年暖めてきた内容を形にすることができたのは大きな喜びです。個人的には、これらの本を「イギリス3部作」と呼ばせていただきたいと思います。
最後になりましたが、本書の出版を快く引きうけていただいた星和書店の石澤雄司社長と、いつも素敵な本に仕上げていただいている編集部の近藤達哉さんに深く感謝いたします。