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home世界の大学と病院を歩く9.ライプチヒ(ドイツ) 2005年6月6日更新

9.ライプチヒ(ドイツ) 2005年6月6日更新

 2005年3月に21世紀COEプログラム「心とことば-進化認知科学的展開」(拠点リーダー:長谷川寿一東京大学教授)のメンバーは、ドイツのライプチヒにあるマックス・プランク進化人類学研究所を訪れ、多くの研究者と交流し、共同研究などについての打ち合わせをした。
 ドイツのライプチヒ大学は、ヴントが世界で初めて心理学実験室を作ったところであり、実験心理学の発祥の地である。実験心理学の道を遡れば、すべてライプチヒに通じるといわれる。また、ライプチヒ大学は、ウェーバーやフェヒナーなどの生理学者、ハインロートやフレヒジヒ、クレペリンなどの精神医学者が活躍し、これらの学問のルーツとなった大学である。また、ライプチヒは、心理学関連の研究施設がたくさんある。
 これらを回るには、3つのルートに分けることができる。第1ルートは、1)ライプチヒ大学の本部→2)心理学科→3)医学部→4)精神科→5)マックス・プランク認知脳科学研究所→6)マックス・プランク進化人類学研究所とめぐる。第2ルートは、7)ライプチヒ大学の児童青年精神科・心理療法科・心身医学科→8)ライプチヒ大学の心理療法・心身医学クリニックとめぐって、ライプチヒの旧市街に帰ってくるコースである。第3ルートは、9)ケーラー霊長類研究所と動物園である。ここに紹介する施設は、半日もあれば歩いて回ることができる。
 ライプチヒの市街は小さい。リングと呼ばれる環状道路に囲まれているのが旧市街であり、ここはかなり狭い。市電(トラム)があるので、それに乗るとよい。トラムの地図は、ホテルのフロントや観光案内所でもらえる。一日券を停留所で買うとよい。一日券は、最初に乗った時に時刻を刻印したら、あとは乗り降りするだけ。切符をチェックする人もいない。ライプチヒ空港からの空港エクスプレスは、ライプチヒ中央駅に着く。

1. ライプチヒ大学の本部

 ライプチヒ大学の本部は、市の中心にある。ライプチヒ中央駅から歩いて5分である。ゲーテ通りをはさんで、オペラハウスの向かいにある時計台の建物がライプチヒ大学の本部である。
 ライプチヒ大学は1409年に創設され、ドイツではハイデルベルグ大学に次いで古い歴史を持っている。この大学で教員をした人には、物理学のハイゼンベルグ、数学のクラインやメビウスなどがいる。この大学で学んだ人には、ゲーテ、ニーチェ、デュルケーム、シューマン、ワーグナーなどがいる。森鴎外もここで医学を学び、池田菊苗は化学を学んだ。東ドイツ時代には、「カール・マルクス大学」と呼ばれていたが、ドイツ統一後はライプチヒ大学へと戻った。現在は14の学部をもち、学生数3万人の大きな大学である。
 ゲーテ通りの時計台のある建物には、おもに、学生サービスの機関が入っている。小さな広場をはさんで、大学のメインビルディングがある。メインビルの前には、レーニンの肖像の入った巨大なレリーフが飾られているので目立つ。その南側の高層建築は、シティー・ホーホハウスと呼ばれ、ライプチヒ市街のどこからでも見えるランドマーク・タワーの働きをしている。このビルは、東ドイツ時代にライプチヒ大学の建物として作られたが、現在ではテレビ局などの一般企業が入っており、大学の施設ではない。上には展望台もあるらしい。
 大学の向かいはアウグストゥス広場で、その両側にオペラハウスと、新ゲバントハウス(250年の歴史をもつゲバントハウス・オーケストラの本拠地)がある。1980年に開かれた国際心理学会議(後述)では、オペラハウスで開会式が行われ、ゲバントハウス・オーケストラが演奏したという。
 ライプチヒ大学の建物は市内に分散しており、おもに市の西南部に多い。

ゲーテとライプチヒ

 ライプチヒ大学の本部はゲーテ通りにあるが、ゲーテは、ライプチヒと結びつきが深い。ライプチヒは「ゲーテ街道」の終点である。「ゲーテ街道」とは、ゲーテが生まれたフランクフルト、大臣として50年をすごしたワイマール、大学生活を送ったライプチヒを中心に、ゲーテゆかりの地を結んだルートである。
 ゲーテは、心理学といろいろな縁がある。例えば、ゲーテは、色彩の研究をして、ニュートンの色彩論に反対し、『色彩論』を著している。これは心理学からの色彩論のルーツとして高く評価されている。また、精神医学者のメビウスが著書『ゲーテ』の中で指摘したように、ゲーテは躁うつの7年周期があり、こうしたメビウスの仕事が、パトグラフィ(病跡学)や天才研究を生むことになったのである。ちなみに、臨床心理学者なら、知能テストの中で、「ファウストの作者は誰ですか」という質問をいつもしているであろう。

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2. ライプチヒ大学心理学科

 新ゲバントハウス(音楽ホール)脇のゴールトシュミット通りを行き、ニュルンベルガー通りを右折し、2つ目のセーブルグ通りを右折すると、左側に5階建てのビルが見えてくる。このビルが心理学科である。住所はSeeburgstrasse 14-20. 比較的新しい建物であり、ヴント時代からのものではない。

ライプチヒ大学から実験心理学が始まった(ヴントと実験心理学)

 ヴントは実験心理学の創設者といわれる。ヴントがライプチヒ大学に心理学実験室を作った1879年は、実験心理学が哲学から独立した年である。
 ヴィルヘルム・ヴント(1832~1920)は、ハイデルベルグ大学で医学を学び、生理学者ヘルムホルツの助手をつとめ、1875年からライプチヒ大学の哲学教授となり、後に大学の副学長を務め、88歳で死ぬまでライプチヒに住んだ。
 内観法や精神物理学実験を組み合わせて、実験心理学の方法論を作った。そして、1879年には、ライプチヒ大学に心理学実験室を作った。なお、1879年という年は、最近の研究によると、実験室の建物ができた年ではなく、実験室を使ったゼミナールが授業に組み込まれた年であると解釈されるようになったという(サトウ・高砂『流れを読む心理学史』有斐閣)。ヴントは1881年には、心理学の雑誌「哲学研究」を創刊した。彼は、①生理学や知覚など、個人の意識を扱う「個人心理学」と、②個人を越えた文化を扱う「民族心理学」に分け、膨大な著作を残した(生涯で5万ページ以上を書いたという)。
 ライプチヒ大学が心理学発症の地とされるのは、ヴントの研究室に世界中から留学者が集まり、ライプチヒが新しい心理学研究の中心となったからである。ライプチヒで学んだ心理学者は、祖国に帰って、実験心理学の研究室を開き、パイオニアとなった。今から100年以上も前に、このライプチヒ大学が、世界中の若き心理学者のメッカとなり「ライプチヒ詣で」がおこなわれたというのは、面白いことである。
 その中には、イギリスのスピアマン(ロンドン大学)、ロシアのベヒテレフ(カザン大学)、スイスのリップス(チューリッヒ大学)、中国のカイ・ユアンペイ(ペキン大学)などかいる。ヴントの民族心理学についても後継者は多く、例えば、イギリスのマリノフスキーは、ヴントのもとで学位を取り、ロンドン大学で文化人類学の教授となり、多くの文化人類学者を育てたのは有名である。
 また、アメリカ人では、ホール(クラーク大学)、キャッテル(コロンビア大学)、ティチナー(コーネル大学)、ストラットン(カリフォルニア大学)がいる。また、臨床心理学の祖と言われるウィトマー(ペンシルバニア大学)もヴントの実験心理学研究室で学んだのである。これも興味深いことである。このように、アメリカの心理学のルーツである点、ヴントの世界的影響力は強い。
 さらに、後述のように、日本の松本亦大郎は、ヴントのもとで学び、帰国して、東京大学と京都大学に心理学実験室を作った。また、桑田芳蔵(東京大学)や、野上俊夫(京都大学)も、ヴントに学んだ。
 また、ヴントは、精神医学のクレペリンに大きな影響力を与えたことでも有名である。後述のように、現代の精神医学の体系を作ったクレペリンは、ライプチヒ大学の大学病院に勤務するかたわら、ヴントの実験心理学研究室で研究した。クレペリンは、ここで連想についての実験や作業曲線の実験をおこなった。こうしたクレペリンの実験にヒントを得て、日本の内田勇三郎が開発したのが「内田クレペリン・テスト」である。このようにヴントの心理学は精神医学にも影響を与えた。
 1980年には、心理学科創設100周年を記念して、ライプチヒで、国際心理学会議(第22回大会)が開かれた。会場は、カール・マルクス大学(現在のライプチヒ大学)であった。世界から4000人が集まり、日本からも77名が参加した。東ドイツで最初の国際学会とのことで、国を挙げての支援であったが、融通のきかない体制に参加者は苦労したようである(『日本心理学会75年史』より)。

ヴントの実験室はどこにあったか

 苧阪(心理学評論, 30, 473-493, 1987)やライプチヒ大精神科のホームページによると、ヴントの実験室は、現在のライプチヒ大学の本館の当たりにあった。
 1875年にヴントが初めて実験室を作ったのは、神学生寮(コンビクト)という。神学生寮は、アウグストゥス広場のメインビルにあり、実験室は、東南の一角の2階に位置していたという。
 そして、1896年には、壮大な大学本館アウグステウムが完成し、その両翼にヨハンネウムとパウリヌムという建物が突き出ていた。場所は、現在の大学の本館と同じである。そのヨハンネウムに実験室が作られたという。松本亦大郎は、『実験心理学十講』(弘道館、1928)の中で、1899年にヴントの「心理学実験場」を訪問した時のことを書いている。それによると、ヴント教授は「ベルリンを見たか、ベルリンは大都会だ」などとベルリンの自慢をして、実験室の見学は弟子に任せたという。ライプチヒ大学の「心理学研究場は大学建物のヨハンネウムと名くる東南の一角の二階を以て之に充て、室の数は大小合わせて十四箇許りあり」とある。
 しかし、この大学本館アウグステウムは、1944年の大爆撃で破壊されてしまった。したがって,現在は、ヴントの実験室はすでにない。
 苧阪(1987)によると、ライプチヒの実験室の面影は、千葉胤成が作った東北大学の心理学研究室に残っていたという。これは、東京大学、京都大学についで、日本に3番目にできた心理学実験室であるが、この建物もすでにない。

ヴントの先駆者(ウェーバー、フェヒナー、ルードヴィヒ)

 ヴントが活躍した当時のライプチヒ大学には、ウェーバーとフェヒナーとルードヴィヒいう3人の先駆者がいた。エルンスト・ウェーバー(1795-1878)は、ライプチヒ大学の解剖学と生理学の教授であり、おもに触覚の研究をおこなった。重さの弁別の研究から発見されたウェーバーの法則は有名である。これは心理学において最初に数量化された法則といわれる。
 グスタフ・フェヒナー(1801-1887)は、ライプチヒ大学の物理学の教授である。彼は、人間の感覚について、ウェーバーの法則を拡張して、ウェーバー・フェヒナーの法則としてまとめた。彼はさらに、物理的世界と心理的世界を対応づける研究を考え、「精神物理学」と名づけた。そして、これを体系化して、1860年に『精神物理学要論』という本を書いた。現在でも、心理学を専攻するとすぐに、調整法、極限法、恒常法などの「心理学的測定法」を勉強するが、これらはフェヒナーの本から出ている。こうしたフェヒナーの思想こそがヴントに影響を与え、今日の知覚心理学・実験心理学の基礎を作ったのである。だから、気の早い人は、実験心理学の誕生の年は、1879年(ヴントの実験室開始)ではなく、フェヒナーの『精神物理学要論』が出版された1860年だとする。
 もうひとり、ライプチヒ大学で活躍した生理学者にルードヴィヒ(1816-1895)がいる。彼は1865年にライプチヒ大学の初代生理学教授になり、生理学研究所をつくった。彼はパブロフを教えたことでも知られている。
 ヴントが心理学を哲学から離陸させるためには、ウェーバーやフェヒナーやルードヴィヒのような生理学の背景がどうしても必要だったのである。

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ヴント以降とライプチヒ学派

 ヴントの考えは、ドイツの心理学を活性化し、ヴントの影響を受けない心理学も多くあらわれた。ブレンターノの作用心理学、フッサールの現象学、シュトゥンプ、G・E・ミュラー、キュルペらのヴェルツブルグ学派の思考研究、エビングハウスの記憶研究などである。そして、1912年には、ゲシュタルト心理学があらわれた。主要な4人(ヴェルトハイマー、コフカ、ケーラー、レヴィン)がベルリン大学で研究したので、「ベルリン学派」と呼ばれた。
 ライプチヒ大学心理学科で、1917年にヴントの後を継いだのはクリューガー(1874-1948)であった。クリューガーらは、「全体性心理学」を提唱し、こちらは「ライプチヒ学派」と称されるようになった。1930年代にナチスが台頭すると、ベルリン学派のゲシュタルト心理学者はすべてアメリカに亡命を余儀なくされた。この後、ライプチヒ学派が力を持ち、ザンダー(ボン大学)、ルーデルト(ハイデルベルグ大学)、ウェレック(マインツ大学)、ワルテッグなどが活躍した。ワルテッグは、ライプチヒ学派の全体性心理学をもとにして、投映法のワルテッグ描画法を開発したことで知られている。

現在の心理学科

 現在の心理学科は、ライプチヒ大学の「生物・薬理・心理学部」という学部に属している。第1部門(基礎心理学)と第2部門(応用心理学)に分かれている。
 第1部門は、マチアス・ミュラーが主任教授であり、認知生物学的心理学、一般心理学方法論、認知心理学、社会心理学、発達心理学の5部門からなる。
 第2部門は、ギセラ・モールが主任教授をつとめ、産業組織心理学、臨床健康心理学、教育心理学、人格心理・心理診断学、人格心理、心理学的介入学の5部門からなっている。
 このうち、臨床健康心理学の部門には、「心理学的治療研究所(IPT)」が併設されており、心理療法の訓練を行なっている。また、人格心理・心理学的介入学の部門は、ハラルド・ペテルマンが教授をつとめ、物質依存や薬物依存の予防の研究をおこなっている。

近くの施設

 心理学科の近くには、ライプチヒ大学音楽学科がある。ここにはメンデルスゾーン・ハウス博物館が作られている。メンデルスゾーンは、ライプチヒのゲバントハウス・オーケストラの指揮者をつとめ、ドイツに音楽院を開いた。この音楽院は、現在、ライプチヒ大学音楽学科となっている。そのメンデルスゾーンの晩年の部屋が記念館となっている。
 また、近くには、グラッシ博物館がある。これは民俗学博物館、楽器博物館、美術工芸博物館の3つからなっている。

ヴントの実験心理学を日本に定着させた松本亦大郎

 松本亦大郎(1865-1943)は、ライプチヒなど世界の心理学実験室を見て帰国した。東京帝国大学の講師であった松本は、1903年に日本で最初の心理学実験場を東京帝国大学に設置した。その設置は、教授元吉勇次郎の依頼によるものである。松本の『実験心理学十講』(弘道館、1928)には、当時の哲学科の中で、実験室を設立した苦労話が書かれている。最初の実験室は、126坪の木造の平屋で、もとの医科大学病理教室を移築したとある。位置は、現在の安田講堂の場所である(肥田野、心理学評論, 41, 307-332, 1998)。部屋数は10室で、電気は工科大学の発電所より供給し、これは東洋で唯一だろうとしている。
 その後、松本は、1905年まで東京高等師範学校(筑波大学の前身)の教授をつとめ、ここに心理学実験室を開いた。1906年には、京都帝国大学の初代心理学教授となり、1908年に心理学実験室を開いた。高額な実験機器や図書は、東京高等師範学校からゆずりうけたという。今ではとても考えられないことである。それを許した師範学校の嘉納治五郎校長は太っ腹であった。京都帝国大学の実験室は、木造平屋108坪で、600点の機械があったという。ほとんど欧米から輸入したものとのことで、『実験心理学十講』にその写真が載っているが、なかなか美しい機械類である(当時の哲学者には、松本はマッドサイエンティストにみえたに違いない)。
 なお、松本は、1912年に、元良勇次郎の死去の後を継いで東京帝国大学教授となり、日本心理学会を創設するなど活躍した。旧制高校に心理学教育が必要なことを文部省に認めさせたのも彼である。つまり、駒場の心理学教室の大元を作ったのも松本ということになる。

東北大学のヴント文庫

 ところで、日本の東北大学の図書館には、ヴントの蔵書が7000冊ほど残っている。この「ヴント文庫」の成立について、サトウタツヤ氏が『心理学ワールド』19号に書いている。のちに東北大学心理学の初代教授となる千葉胤成が、ドイツ留学中の1922年に,ヴントの遺族が蔵書を売り出すという情報をつかんだ。当時のドイツは第一次世界大戦のインフレーションで、マルクの価値が一兆分の一に下ったという。千葉は2万円でそれを購入した(今の金額で1000万円以上という)。ヴントの蔵書の6割に当たるというからすごい。ヴント文庫は、現在でも東北大学図書館の1階で閲覧できる。

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3. ライプチヒ大学医学部と大学病院

 ゴールトシュミット通りをまっすぐに行くと、ステファン通りに突き当たる。右に曲がり、突き当たりはリービッヒ通りで、そこはライプチヒ大学医学部と大学病院である。  ライプチヒ大学で最も有名な学部は医学部である。1415年に創立された。学生数約3000人の大所帯である。前述のヴントやウェーバー、フェヒナー、ルードヴィヒといった生理学者も医学部で活躍した。森鴎外も医学部で学んだ。  ステファン通りには、心理・社会医学科がある。突き当たってリービッヒ通りには、医学部本部、神経学科、認知神経学クリニック、生物学科などが並んでいる。また、ルードヴィヒ生理学研究所もあるが、これは生理学者ルードヴィヒが作ったものである。

森鴎外とライプチヒ大学医学部

 鴎外は、1884年(明治17年)に、22歳の若さでドイツ留学を命じられた。目的は陸軍衛生制度の調査と軍陣衛生学研究のためであった。1884年にはライプチヒ大学に行き、教授ホフマンの指導を受けた。1885年にはドレスデン・ミュンヘン大学に入る。1887年には北里柴三郎とともに、ローベルト・コッホを訪ねた。1888年には、プロシアの軍隊で仕事し、その年の9月に帰国した。その後ドイツ人女性が鴎外の後を追って来日したが、弟らが帰国させた。この話は小説『舞姫』のモデルになった。

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4. ライプチヒ大学の精神科

 ステファン通りの突き当たりがリービッヒ通りである。ここに精神科の建物がある。住所はLiebigstrasse 22. ライプチヒ大学の精神科の歴史は長く、ドイツにおける精神医学の発祥の地といっても過言ではない。

ハインロート

 1811年にハインロート(1773-1843)がライプチヒ大学医学部の「心理的療法」の助教授となった。これはヨーロッパの大学で最初の精神医学の講師であるという。1819年には教授となった。彼はライプチヒのセント・ゲオルゲ病院で学生の教育に当たった。また、彼は、1818年に『心の障害または精神障害と治療の教科書』を書いた。これはドイツで最初の精神医学の教科書とされる。ハインロートは、ロマン派の精神医学の代表者であり、キリスト教的な観点から精神医学を論じた。精神病の身体主義を批判し、心理主義の観点に立った。彼はライピチヒ大学の医学部長をつとめたが、彼の死後、精神科のポストは空席のままとなった。

フレヒジヒとシュレーバー症例

 35年後の1878年に、ようやくパウル・フレヒジヒ(1847-1929)が、ライプチヒ大学の精神科の教授となった。彼は生理学者ルードヴィヒの弟子の脳解剖学者であった。1882年には、精神科の大学病院の病棟も完成した。建築費は120万マルクとのこと。この病院は、現在のライプチヒ大学化学科のビルのある位置に建っていたという。当時のドイツでは最大規模の精神病院のひとつであった。病院の中央には、フレヒジヒの脳解剖学研究室と脳のコレクション室があり、脳局在論で大きな業績をあげた。フレヒジヒの脳解剖学研究室は、1927年には、脳科学研究所として病院から独立し、1975年にはライプチヒ大学「パウル・フレヒジヒ脳科学研究所」と改名されて、市の西部へと引っ越した。
 ところで、大学病院に入院していた患者さんに、ダニエル・シュレーバーという人がいた。妄想などをもっていて、彼は自分の体験や教授のフレヒジヒの印象などを手記として発表した。このシュレーバーの手記をもとにして、フロイトは1911年に「シュレーバー症例」の論文『自伝的に記述されたパラノイアの症例に関する精神分析的考察』を書いたことは有名である。この中で、妄想の根底には、無意識の同性愛的傾向があることを指摘したのである。フレヒジヒに対する陽性転移と陰性転移は、父親との関係の投影であるとしたのである。また、のちに、シャッツマンは、このシュレーバーの手記と、その父親の手記とをつきあわせて、親の厳しすぎるしつけが狂気に向かうとして『魂の殺害者-教育における愛という名の迫害』(シャッツマン、岸田秀沢、草思社)という本を書いた。

クレペリンとライプチヒ大学

 1882年にできた大学病院の最初の医師のひとりが、クレペリンであった。
 精神医学の体系を作ったクレペリン(1856-1920)は、ライプチヒ大学で医学を学び、1882年からフレヒジヒのもとで、精神医学を学んだ。クレペリンは、フレヒジヒを嫌い、むしろ心理学のヴントの方法に興味を持ち、ヴントの実験室に入り浸っていたという。クレペリンは、ここで連想についての実験や作業曲線の実験をおこなった。こうしたクレペリンの実験にヒントを得て、日本の内田勇三郎が開発したのが「内田クレペリンテスト」である。
 ライプチヒにいる時に、クレペリンは、精神医学教科書の第1版を書いた。このテキストはのちに何回も改訂されていくことになる。クレペリンはその後、ハイデルベルグ大学やミュンヘン大学の精神医学教授となり、1917年にはミュンヘンに「ドイツ精神医学研究所」を創設した(のちに「マックス・プランク精神医学研究所」と改名された)。

メビウスと病跡学

 フレヒジヒの時代に、ライプチヒ大学で活躍したのはパウル・メビウス(1853-1907)である。メビウスは1898年に『ゲーテ』という本を書き、ゲーテの躁鬱の7年周期を見出した。また、ニーチャやルソーの研究を行なうなど、精神医学的な天才論の創始者である。「パトグラフィ(病跡学)」という用語を作ったのはメビウスである。彼はライプチヒ大学の講師であったが、女性を蔑視する論文を書いて世間から反感をかった。このことは、クレッチマーの『天才の心理学』(岩波文庫)の中に登場する。また、大学当局とトラブルをおこしたりしたことでも有名になった。

ブムケとシュレーダー

 フレヒジヒは1920年に引退し、1921-1924年までは、ブムケ(1877-1950)が、精神科の教授となった。1925-1938年まではシュレーダー(1873-1941)が教授をつとめた。ブムケもシュレーダーも、身体因を重視する生物学的な精神医学者として有名である。シュレーダーは、児童・青年期の精神医学にも力を入れ、大学病院に、児童心理相談センターや、青年サイコパス部門などを作った。それらは現在、リーマン通りにある「児童・青年精神医学・心理療法・心身医学病院クリニック」(後述)となって現在に至っている。
 第二次大戦中の空襲で、1943年に大学の精神科病棟は消失した。そこで、精神科はあちこちの建物に分散した。そのひとつがリーマン通りにある児童・青年期の精神科である。

東ドイツ時代

 終戦によって、ドイツは分割され、ライプチヒは東ドイツ領になった。ライプチヒ大学はカール・マルクス大学と変わった。1952年から64年までは、ミュラー・ヘゲマンが精神科の教授をつとめた。ヘゲマンは、これまでの生物学路線から、社会精神医学へと変換した。心理療法を大きく取り入れ、「積極的心理療法」を唱えた。彼は、東ドイツ時代の最も有名な精神医学者であった。それに続く、シュワルツとワイゼも同じ路線をとり、2人は『社会主義社会の社会精神医学』という本を書いて、大きな影響を与えた。1966年にはすべての閉鎖病棟は解放され、集団療法も始まり、治療的コミュニティの原理が重視された。1974年には、心理療法科がつくられた。これは後述する心理療法心身医学クリニックの前身である。1984年に、入院用の医学部病棟がようやく完成し(リービッヒ通り)、そこの6階を精神科が使えるようになった。

現在の精神科

 1995年からマチアス・アンゲルマイヤーが精神科教授をつとめ、現在に至っている。1996年から現在の位置に精神科の外来の建物も作られるようになった。住所はJohannisallee 20. この外来では、教授のアンゲルマイヤーが中心となって、パニック障害や強迫性障害に対して、認知行動療法をおこなっている。認知行動療法はドイツにも確実に定着しつつある。

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5. マックス・プランク認知脳科学研究所

 大学病院のあるステファン通りをプラガー通りに戻ると、右側に円形の建物が見える。これがマックス・プランク認知脳科学研究所である。住所はStephan Strasse 1.
 マックス・プランク研究所は、ドイツを代表する研究機関で、ドイツ内外の各地に80以上の研究所を持っている。80以上の研究所をまとめているのは、マックス・プランク・ソサエティである。もとはカイザー・ヴィルヘルム研究所といい、アインシュタインも所長をつとめた。マックス・プランク(1858‐1947)は、1918年に量子力学でノーベル賞をとった物理学者であり、1930年にカイザー・ヴィルヘルム研究所の所長となった。しかし、その後、ナチスのユダヤ人科学者への処遇に抗議し、辞任した。第二次世界大戦後の1945年に、研究所は、プランクを再び所長として招き、彼の名前をとってマックス・プランク研究所と改名した。
 もともと大学教育の発祥の地はベルリン大学である。1810年に作られたベルリン大学には、言語学者・哲学者のフンボルトがあらわれて、近代の大学教育のシステムを作り上げた。①純粋学問の追究、②研究と教育の一致、③教授会の自治権という3原則を作ったのは、フンボルトである。②研究と教育の一致とは、大学ではカリキュラムを作って教えるのではなく、教官が研究していることを教えれば、それが教育になるという考え方である。つまりエリート教育の理念である。文科系はゼミナールで教育し、理科系は実験室で教育するというシステムを作ったのはフンボルトである。このようなエリート教育は大成功を収め、1900年前後のドイツの科学は世界の中心となった。この頃のノーベル賞は、ドイツが独占していた。ドイツの大学システムをモデルとして、アメリカや日本のような新興国は大学を作った。
 しかし、ナチスの台頭と第二次世界大戦によって、ドイツの科学は崩壊した。そのかわり、戦後は、アメリカの大学が世界の第一線となった。その理由は、ドイツのユダヤ人の科学者が大挙してアメリカに亡命したこと、アメリカの大学が、フンボルトの思想を取り入れたエリート教育をおこなって成功したことである。
 戦後のドイツは、フンボルト流のエリート主義を捨て、平等主義的な教育をおこなったため、大学の大衆化が進み、専門教育のレベルは低下した。その結果、戦後のドイツは基礎科学が遅れてしまい、アメリカに大きく水をあけられた。このことは、ノーベル賞の受賞者数に明確に現れている。
 ノーベル物理学賞・化学賞・生理学医学賞の受賞者数は以下の通りである。1940年代には、ドイツとアメリカの受賞者が逆転したことがわかる。1940年代から、世界の科学の主役は、ドイツからアメリカへと交替したのである。


  ドイツ アメリカ
1901年~09 年 10人 1人
1910年~19 年 8人 1人
1920年~29 年 8人 2人
1930年~39 年 9人 8人
1940年~49 年 1人 13人
1950年~59 年 5人 27人
1960年~69 年 4人 26人
1970年~79 年 3人 34人
1980年~89 年 8人 30人

 こうした危機感から、ドイツ政府は、基礎科学を復興せざるを得なくなった。その方法として、莫大な資金をマックス・プランク研究所に投入したのである。世界の有能な研究者を集めて、集中的に投資をして、研究体制を整えた。こうして、研究者にとっては夢のような研究所が完成した。日本だったら、工学や医学などの役立つ科学にお金が回されてしまい、基礎科学への投資は少なくなってしまうのである。
 マックス・プランク研究所は、おもに西ドイツに建てられた。例えば、マックス・プランク精神医学研究所やマックス・プランク心理学研究所はミュンヘンにある。
 東西ドイツ統一後は、東ドイツ領にも作られるようになった。科学の伝統のあるライプチヒにも、マックス・プランク認知脳科学研究所と進化人類学研究所(後述)などが作られた。
 マックス・プランク認知脳科学研究所は、最近まで、マックス・プランク認知神経科学研究所と呼ばれていた。2004年に、ミュンヘンのマックス・プランク心理学研究所と合体して、マックス・プランク認知脳科学研究所となった。その本部はライプチヒに置かれ、2006年までに、ミュンヘンの心理学研究所がライプチヒに移転する予定である。

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6. マックス・プランク進化人類研究所

 プラガー通りをずっと進み、植物園の角、ゼンメルワイス通りを右折すると、近くにドイッチャー・プラッツ広場がある。その一角にマックス・プランク進化人類研究所がある。住所はDeutscher Platz 6。
 マックス・プランク進化人類研究所は、略してMPI EVAと呼ばれる。1998年に作られた新しい研究所である。生物学者、心理学者、言語学者など多分野の専門家が集まり、人間の進化や文化について研究することを目的として作られた。研究スタッフは350人という大所帯である。年間20億円というふんだんな予算を使って、基礎研究をしている。前述のように基礎科学がアメリカに水をあけられたという危機感から、ドイツ政府は、世界から有能な研究者を集めて、集中的に投資をしている。世界にも類を見ない研究所であり、基礎研究者にとっては夢のような場所である。
 広場に沿って半円形をなす5階建ての新しい建物である。建物を入ると中は5階まで吹き抜けとなっていて、空間を贅沢に使っている。フロアには、オランウータンの巨大な像や、霊長類についてのディスプレイが飾ってあり、かなり金をかけている。フロアには、ロッククライミングのできる人工岩があり、ここでフィールドワークの練習をするとか。吹き抜けの上に、講演会室が浮かんでいる。建物の中庭には熱帯風の池まで作ってある(日本の研究所の殺風景な作りとは対極にある)。建物の最上階には個室の宿泊施設まである。
 研究所は、①霊長類学、②言語学、③発達・比較心理学、④進化遺伝学、⑤人間進化学の5つの部門からなっている。部門の主任はドイツ人ではなく外国人になってしまったとのことである。
 ③発達・比較心理学部門の教授はマイケル・トマセロである。トマセロは、言語習得,霊長類研究,比較・発達認知研究のリーダー的存在として知られている。近著『認知の文化的起源』(1999)や、『言語の構成』(2002)では、霊長類との比較研究をふまえつつ、言語を生み出すヒトの認知能力の本質に迫っている。発達・比較心理学部門の特徴は、系統発生と個体発生の両研究を平行して進めていることである。つまり、霊長類と人間の幼児を平行して研究していることである。霊長類やサルの研究は、ライプチヒ動物園のケーラー研究所(後述)と提携しておこなっている。幼児の研究は、ライプチヒ市内の幼稚園と連携して11,000人の幼児のリストを作って、研究協力者を集めている。この部門の研究者は、研究所と動物園と幼稚園を往復しながら仕事をしている。話を聞いた院生のテニー氏は、オートバイで動物園と研究所を往復していると言っていた。
 ②言語学部門の教授はバーナード・コムリーである。彼はイギリス人で、言語のタイポロジーの専門家で、言語の普遍性を調べるために、世界中の言語の語彙集を作っている。世界の各地でフィールドワークをおこなって世界の言語の語彙の辞書を作る仕事をしている。夫人は日本人ということであった。
 マックス・プランク進化人類研究所は、筆者の属する21世紀COEプログラム「心とことば-進化認知科学的展開」(拠点リーダー:長谷川寿一東京大学教授)のモデルとなった研究所である。われわれのCOEプログラムでも、生物学者、心理学者、言語学者など多分野の専門家が集まり、領域横断的な研究をめざしている。われわれCOEのメンバーは、2005年3月にこの研究所を訪れ、多くの研究者と交流し、研究組織について学ぶことができた。多くの大学院生も研究していた。研究所は博士号を出せないので、提携するライプチヒ大学で学位を取るとのこと。
 発達・比較心理学部門の主任トマセロは、たまたまわれわれがライプチヒに行った2005年3月に、ちょうど入れ替えに来日して、東京大学で「言語の構成」という講演をおこなった。そして、われわれが研究所を訪問している時に、ちょうど研究所に戻ってきた。
 ドイッチャー・プラッツ広場において、この研究所の隣は、バイオテクノロジー生物医学センターである。また、広場をはさんで、向かいは「ドイツ図書館」である。巨大な建物であり、中には、図書文書博物館があり(入場2ユーロ)、ライプチヒに関連した出版の歴史が展示されている。ライプチヒは、出版社や印刷所が多いことで有名であり、世界初の新聞もライプチヒで発刊された。岩波文庫のモデルとなったレクラム文庫も、ライプチヒで創刊されたという。楽譜も裏長紙にライプチヒと書かれたものが多いという。また、プラガー通りを先に行くと、ライプチヒの戦い記念碑というモニュメントがあり、中に入ることができる。

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7. ライプチヒ大学の児童青年精神科・心理療法科・心身医学科

 もう一度、旧市街に戻る。市役所の新庁舎から南へ伸びるペテル・シュタインベーグを南に数分歩き、リーマン通りを左に曲がると、すぐに巨大な黒い教会(ペトリ教会)が見えてくる。その向かいのビルがライプチヒ大学精神科の児童青年精神科・心療内科・心身医学科である。住所はRiemann Strasse 32‐34. 中央駅から徒歩15分ほど。トラムは10番か11番である。
 シュレーダーが精神科の教授だった頃に、児童・青年医学も力を入れた。それがこの部門の前身である。

8. ライプチヒ大学の心理療法・心身医学クリニック

 旧市街に戻り、カール・タウヒニッツ通りを西に行くと、右手に大きなヨハンナ公園が見えてくる。このあたりは、ベートーベン通り、モーツァルト通り、ハイドン通りなどと名前がつけられていて楽しい。べートーベン通りを過ぎたところに、古い建物があり、それが心理療法・心身医学クリニックである。住所はKarl-Tauchnitz Strasse 25.駅から歩くと20分くらいだが、公園の横を歩くので楽しい。途中、左側に連邦裁判所の美しい建物があるが、旅行ガイドには載っていない。
 心理療法・心身医学クリニックは、1974年に作られた精神科の心理療法部門がもとになっている。この部門は、クリスタ・コーラーが主任をつとめた。コーラーは精力的に仕事をする人で、1971年~73年にはライプチヒ大学医学部長をつとめた。81年に引退した後は、マイケル・ガイヤーが主任をつとめて、現在に至っている。
 ベートーベン通りには、ライプチヒ大学の図書館や歴史学科などの建物もある。
 ここから中央駅まで戻る途中は、旧市街を通る。旧市街にはライプチヒの観光所が集まっている。ブルグ通りには、ライプチヒ大学エジプト博物館があり、600点が展示されている。また、ライプチヒ大学の日本研究学科もある。ほかに、バッハ博物館(バッハは晩年の27年間ライプチヒに住んで、作曲活動を続け、この地で生涯を閉じた)、ファインアート美術館、旧市庁舎とライプチヒ歴史博物館、トーマス教会、ニコライ教会などがある。また、ゲーテの『ファウスト』に登場する地下レストランがアウアーバッハ・ケラーである。1525年創業で、店の外には、ファウストとメフィストフェーレスの像があり、足に触るとよいとか。中は『ファウスト』のさし絵の博物館にもなっていて、森鴎外の日記の小冊子なども売っていた。
 ちなみに、マックス・プランク進化人類研究所のパンフレットには、ライプチヒの博物館トップ5が載っていた。それらは、バッハ博物館、ファインアート美術館、自然史博物館、ライプチヒ歴史博物館、同時代史フォーラムである。

9. ケーラー霊長類研究所と動物園

 中央駅から北西へ10分ほど歩くと動物園がある。市電だと12番。
 動物園の中にケーラー霊長類研究所がある。ゲシュタルト心理学のヴォルフガング・ケーラー(1887-1967)は、『類人猿の知恵実験』(岩波書店)などの著書で知られるように、霊長類を対象にした心理学実験から「洞察学習」の概念を提示した。このケーラーの名前を冠したのがケーラー霊長類研究所である。ただし、ケーラーが実験したのは、テネリフェ諸島であり、ケーラーはその後シカゴ大学教授となった。ライプチヒに住んだことはないようである。研究所で霊長類の心理学実験をする様子は、ガラス越しに一般公開されている。

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